デンキヤのオトコ
その男は、大分から来た。
造船から波乗りをはじめ、スープラを乗り回していた。
黒いマークⅡバン(エアロ付)にロックダンス巨大ステッカーのころ、オレは知り合った。
「寺沢の乱」で鮮烈なデビューを飾ったころ、奴は「石原パイセン」とも知り合う。
石原パイセンは、そのころ「ZHサーフガレージ」の店員。
ぼくらはその頃「ベガー」でゴロゴロしていた。
夜は三三九から、ワヤーンのいるなんだったけか?べっちょ君とよく呑んだ。
やがてJ-SOUCE(カズオ君時代)に行くようになり、本格的にテンちゃんとつるんだ。
話をもどそう。
大分から来た彼は、その悔しさから毎日SURFし、海にいた。
めきめきと腕があがり、大会でも成績を残すようになる。
時代は1977年生まれどもの絶頂期を迎える。
そうTEAM DOUBLE-CABの結成だ。
実力とノリのある彼らは、ほとんどのものが仕事と遊びの両立を目指した。
頑丈さと強メンタルのある彼らを、先輩たちはこねくりまわし、楽しんだ。
しかし、時代は容赦なく進む。
中国万博で起きた鉄不足から、業績の悩んだ造船業の休みが増えると「こりゃ、いい」とばかりに遊びまくった。
しかし、独身貴族のうちはそれでよかったが、所帯持ちともなればそうもいくまい。
生きていくため、家族を守るため、彼は休日を利用し、いろいろなバイトに明け暮れた。
と、同時に海からは次第に遠のき、子育てや奥様の言いつけに従うようになる。
「男は、遊ばねば仕事などできないものだ」
素直だった彼に「ごまかして、うまくやる」の真髄をたたきこむ。
この精神は「ピース寺先輩」が潤センと編み出した「A大マニュアルその1 コンパにおいて」に記されておる。
この経典は非常に危険で、世捨て人になりかけることもあるので、その使用方法については注意したい。
実際、その「いいかげんさ」に侵されかけ、ある協会をつぶしそうになっている男がいることがないよりもの真実といえよう。
さて、冒頭の大分から来た男の件だが、10月イッピから、所属会社を変更した。
そのズーズーしさから、一気にNO,02の座を射止めたのは、やはり「セットハンター」としての血が、まだ生きているのだといえよう。
あの「大分の南京虫」と恐れられた男の血を吸っているのが、まさかオレだとは、誰も知るまい。
グッジョブ!GR。「く、クダサイヨ〜!!」とだけ、金曜日の朝、お伝えしておこう。
ガンバレ、藤井工事!