GJAND

SAPORT-J

昨日、俺んちのとなりのJ事務所が撤収されていった。

中からはバケツだの、お化けポリッシャーだのが「痛快」に運び出されていった。

オレはSAPORT-Aとそれを見送った。

16:00ということもあり、向った先は S-E。


「だがしや」の「おばちゃん」は笑顔で万引きを見逃してくれ、「A」はしたい放題。


「オーナー」が帰ってくる頃には、「のどからからの方はどうぞ、無料です」とかかれた冷蔵庫は「瀕死」の状態に。


オレと「A]は「J」の今後を考えるべく、浜にむかった。

ほどなくして「A]の携帯がなった。


携帯の先は「G」だった。


事務所撤収の儀に関し語れば「オレにくれればよかったのに」と悔やんだ。

3年問題が囁かれる中、以前テラスポですっぱ抜いた「ライダー問題」まで話しが及べば、やはり出てくる「一見さんWK」の話題。

かつてFOXと呼ばれた「よぴか」が一番得意とするジャンル、そう、「DISる」だ。


酒が「DIS」を加速させ、締めにはやはり「AKBラーメソ」


「G」は何故か24歳、えーーーとナニちゃん?に猛アタック。

「A」はこうなる事を予想し、意外と控えめ。

いわゆるエロ社長」、「G」は、坂「道」を転がり落ちるべく酒を垂らした。

カウンターにての作戦待機行動に、AKBローカル「からし」の登場にてオレタチは散会。


1月の夜の雨にうちしがれながらの帰路となった。


昨日、良かったのは以前「BG」、BACK-GROUND?、アパレル君が復活していたこと、「A」を「あごくん」と呼ぶ「えりか」サンに対し「えりさん」とまちがえる「A」の自爆テロ。

「会話のテロリストA」は「尊師DISFOX」に忠誠を語り、どこまでも突き進んだ。

事態を重く見た国連(連発でこきすぎての略)は一連の抗議活動に釘を打ちべく粛清に乗り出したが、UNO事務総長がこれに反発。

大量のA4コピー紙を人質に「オレは小遣いが少ない」と要求し、携帯を投げた。

仕事の「日報」を先輩に頼まれ、「PCが壊れた」との理由でUSBを挿入、「ありがとうございました」との言葉も無くプリントアウトする姿はもはや「空き缶拾い」のソレ。

「J」の後輩「U」は、いつの間にか「かっこいい」といふことも忘れ、己が欲の為、必死で「うまくやってる」感じだ。

この所信演説に「だまれハゲ」と釘をさしたのが、先輩であり「ミスターセンター試験」と恐れられた「J」だった。

小学2年生時分から、2日に一度は「センター試験」を行う「J」

試験官が1ッ分間違えたり、「問題を流出」したりで「J」の「センター試験」は国を挙げての行事とあいなった。

この経典は「D」のDANCE-STYLEに大きな影響を与えた。

「D」、コードネーム「DT6」

旧ソ連VSアメリカの冷戦時代、そう、情報戦が戦況に大きな成果をもたらすことが顕著に現れだした1977年、彼は産まれた。

単身、チェら沢地区に武者修行に飛び出した「D」は、その生まれ持ったセンスに磨きをかけ、ファーストアルバム「ブヒる」をリリース、爆発ヒットをとばしたのち、セカンドシングル「やヴぁい」でその立場を「一発芸人」から「トップアスリート」に転進、アスリート界での立場を不動のものにした。そのサクセスストリー、自伝「ジャグラーリプレイはずし」で、流行語大賞にノミネートされたのが、記憶に新しい。

そのころ「G」は「あれっ?浜におる?」との通報を「A」に通達。

今回の運びになったわけだが、オレがこんなに二日ッちゅーのには意味がある。

宮古島のおっさん」が仕込んでいった「泡盛」あと、なんとかっちゅー白い焼酎、あと傍らの「G」「A」「N」によるNICE-TALKにて、いま、オレが完成しているわけだ。


いや〜、月曜日から「いっっちゃうよ!!」てな。



ああ、アホだ〜